ヴィトルド・ゴンブローヴィッチ『フェルディドゥルケ』

世界は複雑である。インターネットやSNSの普及で、意味不明なことの数々を、誰もが目にすることになってしまった。世界は複雑で、よくわかんなくて、ちょー疲れる。

だからこそカウンターとして、ミニマリスト的な思考が流行しているのだと思う。僕もどこか心惹かれるところがある。

子どもを育てることは、ミニマリスト的な思考とはきっと正反対だ。 産休、育児、家事、子どもが産まれるとキャリアは計画できるものではなくなってしまう。キャリアプランニング? 冷たい笑いがでちまうよ。子どもが増えるほど、複雑さは増していく。かくいう僕も、二人目が産まれてからは、あっちゃこっちゃ振り回されてばっかりで、順風満帆、計画通りに人生が進む気がまったくしなくなった。

でも、心地悪いかと言われると、そうでもない。なんなら最近は、複雑になればなるほど、人生が楽しくなっていくような気持ちさえする。広告代理店に勤めていたときとは、正反対の考えだった。(だって残業したくないもんね。)

複雑さが楽しい、なんて言うと強がりに聞こえるかもしれない。でもたぶん僕は、何かから降りようとしているのかも。人生をシンプルに、計画通りにしてくれる何かしらの「型」から。

著者のゴンブローヴィチは、「形式」に「未熟さ」で対抗した。

「形式」とは、歴史の積み重ねの中で社会につくられた「型」のこと。

例えば、社会人になって僕は、メールの書き方の「型」におどろき、困り、完全に適応した。「型」があるからこそ、頭を動かさずにメールの文面を書くことができる。だけども、「型」はメールの書き方を縛り、シンプルに、簡潔に、書き手らしさを消し去ろうともしてしまう。

「形式」に絡めとられないようにするには、どうすればいいか? 未完成な状態であればいい、つまり、「未熟」であればいい。簡単ではない。未熟は、人に笑われる。バカにされる。辱められる。そしていつも心のどこかで「形式」に惹かれ続けてしまう。心休まるときはないだろう。だが自分を不安定な状態に置いたとき、誰よりも世界の複雑さを目にすることができるのだ。

ゴンブローヴィチは亡くなるまで不安定な場所で「形式」と闘いつづけた。彼は1904年ポーランドに生まれ、上流と中流のあいだで育ち、亡命者として南米アルゼンチンに留まり作家活動をつづけ、フランスへと移住するも、ついにポーランドに戻ることなく生涯を終えた。

フェルディデュルケの主人公は、30歳の男。彼は幼児化されてしまい、中学校に通うことになってしまう。30歳の男が未熟な状態に戻されて、世界にはびこる「形式」(不良とか、恋とか、主従関係とか、結婚とか)にぶつかり、逃げ、バカにしては捕まり、また逃げる。

主人公の目で見つめる世界は、不気味で、意味不明で、恐ろしい。世界は「形式」から脱落しないように極度の緊張状態で張り詰めている。だが彼は、幼児的に、おしりを突きだすような滑稽さで、世界を笑わそうとする。その姿勢に、読みながら何度も「ありがとう」とつぶやいてしまう。