慈 憲一「レジスタンスのまちづくり」

人間誰しも怒られるのは嫌いだ。子どもの頃の怒られた経験から、人間は二パターンに分岐するように思う。怒られることはやらない人と、怒られないようにやるか怒られてもできるだけスルーする人。著者の慈憲一(うつみ けんいち)さんは、確実に後者だ。

慈さんは阪神・淡路大震災をきっかけに、東京から地元の神戸市・灘区へ帰郷した。はじめは「揺れの瞬間に神戸にいなかった後ろめたさ」から復興委員会に参加し、まちづくりに関わっていた。けれど、次第に疑問を抱く。街はつくれるものだろうか? 

慈さんは勝手にフリーペーパー「naddism」を制作し、バス停のベンチへ知り合いへ、とことん勝手に配り始める。続けているうちにどんどん購読者は増え、活動はフリーペーパーを超えて、地域のイベントを企画するようになっていく。

「地域イベント」と聞くと、子どもに優しくて、温かい雰囲気を想像してしまうが、彼は生ぬるいイベントは開催しない。どれも、本当に自分が楽しめるイベントしかやらないし、「楽しい」に真剣に向き合う。時には駅弁を作り、市バスに乗り込み勝手にガイドをはじめ、灘区にある山・摩耶山では怪談を開催したりする。慈さんは神戸市灘区という街を遊び倒していく。

この本のテーマは「遊び」であることに間違いはない。遊びとは、1日中ボーッとしたり、テーマパークやキャバクラで接待されることとは違う。決められたルールをいかに掻い潜り、自由になれるか。自分が楽しむための真剣勝負なのだ。各章のタイトルも「〇〇を遊ぶ」と題がつけられ、ページをめくるたびに、慈さんの奇想天外な遊び方が飛び出してくるので驚き、半ばあきれ、笑った。涙もした。

だが、本の終盤、驚くべき一節が飛び出す。

時々「まちあそびの人」と言われることがある。(中略)でもやっぱりしっくりこない。じゃあなんなんだという話ですけど、最近は街をつかうという言葉がしっくりくる。

「ええっ!遊んでたんじゃなかったんかい!!」と思わず関西弁風な関東人のツッコミをしてしまう。僕は立ち止まって考えてしまった。

慈さんは、まず「まちづくり」に関わった。そこには「まち」という巨大な幻想があり、フィクションを作るような感触に、彼は違和感を覚えた。

次に「まちあそび」をした。あそびのフィールドは、公園から、「まち」へと広がった。でも、広がっただけだ。「まち」はまだ巨大な幻想として、あるいは権力者のように、上に存在していた。

そして最後に行き着いたのが「街をつかう」という言葉だ。「つかう」とは、もはや「まち」を上には見ていない。「まち」と対等に、向き合おうとしているのではないか。

はじめに、にはこう書いてある。

人は関係性の中で存在しています。「まちづくり」は、ハードだけでなく、その関係性(システム)をつくろうとします。そんなものは人間がつくれるはずがない。「まちあそび」は、システムではなく、個人の自由な活動による地域との関わり方の一つです。その結果、街が賑わったり、よくなるのではないか。

日本はこれから人口が減り続け、街は縮小していく運命にある。そこに「まち」という幻想はもはや入り込めない。「街をつかう」とは、私たちが真剣な目で「まち」と対峙するための重要なキーワードになっていくのではないか。

2025年に、私は東京から神戸市東灘区に引っ越してきた。お隣の灘区にもよく自転車で遊びにいく。この本には、30年前から現在に至るまでの灘区が描かれている。読んでいるだけで、あそこではこんなことがあったのかと想像力がかきたてられる。単純に、歴史的背景も知ることができて面白い。

東灘区に引っ越してしまったけれど、灘区にすりゃよかったとも思わせられる。

東灘クミンが灘クミンに本気で憧れてしまう。そんな威力を持った本だった。

【書籍情報】

タイトル:『レジスタンスのまちづくり

著者: 慈 憲一

発行: 和久田書房(2026年4月3日 初版発行)

定価:本体2000円+税

ISBN:978-4-911580-01-1

森平 周

森平 周 Shu Morihira

神戸市を拠点に活動するコピーライター・クリエイティブディレクター。まちのことば社代表。日本産業広告賞・BtoB広告賞・朝日広告賞 受賞。自治体・地域ブランド・企業の広告コピーやブランディングを手がける。

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