「もういいや」とか「あ〜疲れた〜」と気を抜いた瞬間に、人間は紋切り型へと流される。紋切り型は心地いいが、つまらない。生きてきた年数分の紋切り型の態度や、言葉や、物の見方は、魂の核まで侵してしまっている。泥にハマった状態から抜け出すには、やっぱり、真剣勝負するしかないんだ。
『カスバの男』はサブタイトルにもあるように、著者の画家・大竹伸朗が真夏のモロッコを旅した11日間の日記だ。大竹さんは、モロッコの風景・人・匂い・言葉・光が、自分に起こしたことすべてを、真剣勝負で見つめて離すことはなく、絵と写真と文章に定着させる。
誰かがデッキにぶちまけたポップコーンを拾い、そっと口に入れた男の子。
タンジール港は「初めていった香港」の印象。突風、赤い旗のはためき。サングラス。「与えるもの」と「与えられるもの」のバランスについて。いい思いをすると確実に何かを失くす。
大竹伸朗『カスバの男 モロッコ旅日記』
伝わりやすいように書くことを念頭においた文章ならば、途中で何の脈絡もない著者の思想が挟まれることはないだろう。しかし大竹さんは、自分の目に映ったものも、自分の内に起こったことも手放さない。だからこそ突然の文章に何度も驚かされ、そして、伝わりやすく書いた文章よりも、本当の何かを受け取っている気にさせられる。
著者の思考は突然で、モロッコにいるのに新宿の歌舞伎町まで飛ばされることも頻繁にある。だからと言って、日記自体は決して読みにくいことはない。文章の構造が、読者に親切に設計されているからだ。
日記の中には、4つの「文字」が使い分けられている。
①級数の小さい明朝体:1日の行動の概要。どこへ行き、何をしたか。
②ゴシック体:色を重ねていくように、言葉を重ねていく街の描写。
③級数の大きい明朝体:エッセイ、思索。
④明朝よりも細くやわらかいフォント:おそらくその日にみた夢の日記
フローベールがボヴァリー夫人で、登場人物の内面描写をイタリック体で打ち込んだように、きっと「文字」でもっと工夫があってもいいのだ。
角田光代さんのあとがきも素晴らしかった。
この本には、ジュンク堂書店三宮店で出会った。20年以上前に文庫化された本だというのに、文庫の棚の中で表紙が見えるようにディスプレイされていたのだ。この本をおすすめしてくれた店員さんに感謝だ。