ミラン・クンデラ『小説の技法』表紙

小説を読むよりも、小説論を読む方が好きかもしれない。恥ずかしいからあまり口に出すことはない。天才っぽくないから言いたくないのか? 感覚だけで小説を書くことができないから、小説とは何か?を考えたいし、考えるのが好きなのだと思う。

ミラン・クンデラ『小説の技法』の表紙にはこうある。

セルバンテス、カフカ、プルーストなど、誰もが知っている名著名作の作者たちとその作品に言及しながら、さらには自らの創作の源泉を語りつつ、「小説とは何か」「小説はどうあるべきか」を論じるクンデラ独自の小説論。

僕はまだまだ文学レベルが低いので、「誰もが知っている名著」のほとんどを読めていない。セルバンテス、プルーストも、本の中でよく言及されるブロッホだって読んでいない。(ボヴァリー夫人と、カフカをかろうじて読んでいたから、かろうじて最後まで読み進めることができた。)表紙には「文学入門」とすら書かれていて、文学の門にすら入れていないことを思い知らされた。(文学の門に入れている人は、世界人口82億人のうち何%なのでしょうか?)

したがって、この本の中身のほとんどを理解できてはおらず、感想を書くのも難しい。

でもやっぱり書き残しておこうとおもったのは、この本を読んで「小説」へのまなざしに変化があったからだ。

小説とはなにか?ミランクンデラはこう語る。

小説

作者が実験的な自我(人物)を通して実存のいくつかのテーマをとことん検討する、散文の大形式。

P203

実存とは過去に起こったことではなく、人間の可能性の領域、人間がなりうることのすべて、人間に可能なことのすべてです。

P65

僕はこの定義が好きだ。

小説は、告発でも、論でもなく、人間の可能性を考える遊戯。だからこそ、可能性、新しい発見をしているかどうかに、ミラン・クンデラはこだわる。発見がない小説は、小説史からは外れるとさえ言い切る。厳しい。厳しいが、この定義を持った上で小説を書くのは、面白いだろうなとも素直に感じてしまうのだ。

マリオ・バルガス=リョサ『果てしなき饗宴』と同じように、この本も、何度も立ち戻ることになりそうだ。