著者は「置き配」に着目して、コミュニケーションのかたちを問い直す。

置き配とは、物そのものの受け渡しによってではなく、届ける側と受け取る側で同時にメタデータを共有することで、「物が確かに配達された」という事実を確定する仕組みなのです。

置き配的 序文

置き配の通知にはそそっかしい写真が添付されている。写真は、配達した事実だけを伝えるために撮影されて、通知を受ける側も、その事実だけを確かめるために写真を確認する。そのメタデータの共有には、これまでの「届ける」という行為から、「誰が」「誰に」という情報が剥ぎ取られている。

コミュニケーションにも同じことが起こっているのではないか、と著者は考えた。例に挙げるのは、Xにおいてよく勃発する、揚げ足取りだけのコミュニケーションだ。

「ネットの先には実在する人がいるんですよ」は、数年前からよく聞くセリフで、SNSの問題点として今や当たり前に認識されている。しかし、Uber Eatsや置き配が広まった今、「誰が」「誰に」が剥奪された今、もはや「あなたの目の前には実在する人がいるんですよ」という不気味なセリフが広まる可能性だってある。

この本の狙いは、<コンテンツから作品へ、ポジショントークから日記へ>というふたつの線を引くことで、置き配的なものに回収されない空間を開くことだとまとめることができます。

置き配的 序文

著者はまさに日記的に、行ったり来たりを繰り返しながら、コミュニケーションを捉えようとする。そしてたくさんの哲学者も横断的に行き来するのだけれど、僕は哲学の多くを知らないので、ついに道半ばにして振り落とされてしまった。

フーコー、デリダ、ドゥルーズ、アーレント・・・etc。例え著作を読んでいなくとも、それぞれの主張や哲学史の概要だけでも理解していれば、もっと刺激的に読むことができたのだろうけれど、残念。十年後には理解できるようになっているだろうか。

置き配的なものに回収されないためには、「誰が」「誰に」を取り戻す必要があって、もちろんそれは「私が」「私に」でもいい。むしろ今、「私が」「私に」を取り戻すために日記ブームが起きているのかもしれない。

コンテンツは「みんなが」「みんなに」が大きくなりすぎてもはやボヤけているのに対して、作品は「作者が」「みんなに」or「あなたに」ということなのか? でも作品って、作者が作っているようで作っていない。作者もわからない「何か」が、誰とも言えない「何か」に訴えかけるのが、作品のような気もする。

でも著者が言うように『コンテンツから作品へ、ポジショントークから日記へ』を実践したとして、当たり前のことだけれど、コミュニケーションは届ける側と受け取る側があり、届ける側がいかに「誰が」「誰に」を取り戻そうとしていたって、受け取る側が放棄してしまっては、もはやどうすることもできない。

うーん、どうなんだろう。本当にお手上げなのか? この本を深く理解できた人たちに、希望について話を聞いてみたい。

【書籍情報】

タイトル:『置き配的

著者: 福尾 匠

発行: 講談社(2025年11月20日 初版発行)

定価:2,310円(本体2,100円+税)

ISBN: 978-4-06-540137-8