保育園へ送った帰りに、少しだけマクドに寄る。
朝のメンバーは大体決まっていて、腰の曲がった90歳ぐらいのおじいさん(いつも文庫本を読んでいる)。黒い上着を着た40代くらいのくたびれた会社員(なぜか10時くらいまで本を読んでいることがある)。あとは、185cmはあろうかという長身の高校三年生。いつもは勉強している彼は、今日、スマホを触ってばかりいた。帰り際にちらりと目をやると、きちんと教科書を開いていて安心する。
帰宅して息子とお風呂に入る。湯船の中でいち、に、さん、し、ご、と数の数え方と手の動かし方を教える。息子は「ご」と言い終えると勢いよく両手を開いて、そのまま自慢げに手のひらをあわせるようにして叩き、すると水が跳ねて顔にぶつかり口に入りむせていた。

少し落ちこむことがあり武田泰淳の「司馬遷は生き恥さらした男である」が頭の中に浮かんできた。恥とはなにか。何をするにも邪魔だ。司馬遷は宮刑(陰茎の切除)に処されても史記を書き続けた。
『存在の耐えられない軽さ』のなかでも、「恥」が描かれる。登場人物のトマーシュは、ロシアに占領されたあとのチェコスロヴァキアで医師をしている。彼は共産主義を盲目的に信奉していた人々を糾弾する記事を、ある雑誌へ送り、掲載される。
当局はトマーシュに選択を迫る。撤回書を書くか、それとも今の職を失うか。言い換えると、「恥」を担保に以後の行動を制限されるか、「恥」ない行動を取り惨めな身分になるかを。トマーシュは生き恥をさらすことはせず身を窶した。
金銭のように数えられず土地や不動産のように目には見えないけれど、「恥」は普段の私たちの決定に深く関わっている。この道は儲かるか、得をするか(損をしないか)を頭の中で考えつつも、頭の中の隅でこの道は「恥」ではないかも、意識せずに考えてしまっている。
「恥」はまるで資産を押さえられるように、誰かの手に委ねられてしまうことだってある。